不登校になって どうやって過ごしていたのか?Vol.5 6年生


2021.9


6年生の3学期は 中学入学の準備とか いろいろとやることが多いので
登校することも多めになってて

小学校を卒業してしまうと 給食費の未払い請求もできないのか?
担任の先生の催促も多め

学校からの連絡が 家にいない親と繋がることもなかった



小学校の放課後を利用して 夕刊の新聞配達をする友達が居て
中学に上がるのでもうやめると言う

なので 中学に上がるまでの2か月でも
その新聞配達のバイトをやれないか 販売店に聞いてもらえないかとお願いすると
あっさりOKを貰え やることになって

月曜から金曜まで60件の夕刊を配達して 一か月6000円

小学生からしたら とてつもない大金

新聞販売店も たまたま家の近くで 学校が終わってから
新聞を配るのも 1時間くらいで済んでしまう

時間的余裕から 1か月だけのバイトになったけど 人生 初給料は4000円

紹介してもらった友達が 配達先がわからないと困るからと
慣れるまでの数日は 配達で付き添いをしてくれたので 友達に2000円を渡し

その初給料を知った母親は 2000円持っていった


初給料で 文具を買ったり お菓子を買ったり 洗濯洗剤を買ったり
あっという間になくなったけど

自分で稼いだお金を使うのは嬉しかった



住んでる地域では 小学校から中学に上がる場合
3校ほどに分散するので 小学校でお別れする友達も半数以上

友達と言っても 前ほどの繋がりを築いてなかったので
寂しく思ったりすることもなかったけど

その変わり 今まで遊んだことはないけど 同じ中学に進む新しい友達も出来たり
何かとメンタル的にも 忙しくなる時期だった



不安に思ってた 中学準備も進み
学ランや学校指定のジャージを買ったり カバンを買ったりする中

ジャージがあるんだから体操着はいらないと勝手な解釈で買わない母親
やっぱり 不安は的中


不登校が始まる前の 小学校3年の時に

新しい学校に転入して初めての水泳の授業
当然 水着が必要で 買ってくれないので 授業はずっと休んでて

買ってくれたと思ったら 安い普通の海パン

当然 水泳の授業なんかに着られないから ずっと休みを貫く時期があったので
今回の母親の行動は ありえることだと思った


小学校の卒業式の前日 担任の先生から呼び出され
給食費の未払いを親にしっかり伝えるように言われ 請求書の入ってる封筒を渡された

家に帰って請求書を見ると
学級費を含めて4万円ほどの金額だった


帰って来た母親に渡すと こんなに払ってなかったのかと 驚いていたけど
お前が使い込んだだろと言われたが

そもそも給食袋にお金を入れて 渡されたのは数回であって
俺が使い込むほど渡されてなかったが なにも言い返さず黙ってた


小学校の卒業式の服装は 白いシャツに黒い半ズボン
女子は白いシャツに黒いスカートと指定されてて

日頃から黒い半ズボンを履いてない自分は
新たに購入しなければならず 母親に買ってほしいと言ってはいたが

1日しか着ない黒い半ズボンは当然買わなくて
手持ちの茶色の半ズボンに白いシャツで卒業式を迎えることになった

翌朝に母親から未払いだった給食費と学級費を持たされたが

いろいろ事情はあるけど 普通に払ってくれれば 俺も普通に学校に行けたんだけどなと
ふと思ったけど その言葉は心にしまっておいた


卒業式当日 登校すると

みんな白いシャツに黒の半ズボンやスカートを着ている中で
茶色の半ズボンを着てる自分と グレーの半ズボンを着てる子がいた

みんなと違う色の半ズボンを着てても 誰ひとり責めたり弄ったりする子も居ない

逆に今日1日だから わざわざ買わないよねと みんなフォローしてくれる
人間関係に恵まれてるなと 子供ながらに思う

担任の先生に 未払いだった給食費と学級費を渡したら 心が晴れた感じにも思えたけど
こんな嫌な思いはしたくないと思いながら

卒業式も無事に終わり 晴れて卒業となった

一年近く過ごした学校だけど あまり思い入れも作らないように
友達も作らないようにしてきたので 感動的な感情も沸いてこなかったけど


中学の学校生活が不安で仕方なかった

不登校になって どうやって過ごしていたのか?Vol.4 6年生


2021.9


6年生の夏休み明けは登校したけど 給食費は未払いがあったりなかったり

学校に行かない時は 家にこもる日々
 
学校に行かなくても 朝は必ず起きて 
電気が使える時は テレビ観たり 掃除したり 洗濯したり

電気が止められてる時は 風呂桶で手洗い洗濯
あとは適当に過ごして 本を読むくらいかな

食べる物もそうあるわけでもないし 買うお金もないので
お腹はすくんだけど そのうち忘れる感じ

下校途中の友達が 様子見に来てくれたり プリント持ってきてくれたり
たまにアパートの下の道路から 〇〇!学校に来いよぉ!と励ましももらえる

6年生になると 中学の学校生活を考えたり
その先の 中学卒業したら 就職はどうするか?

大雑把ではあるけど 考えてる時期もあった


学校生活は いたって普通
連続で休んだあとの登校は 先生からいろいろ聞かれるし 給食費未払い分の催促もある

普通に授業受けて 休み時間も 性別問わず
必ず誰かとおしゃべりしてみたり 遊んだりもする 普通の小学生

ただ学校生活は 前ほど楽しいこともないし 本気で友達作ろうとかも思わない


それは また転校するかもしれない不安から来るものだった…


放課後は 運動場の一角で遊ぶことも多かったけど

学校と真反対の家の子たちで 普段遊ぶことがないメンバー
しかも隣のクラスの子が多かったけど どっちかというと やんちゃなグループ

別の日に下校してから 野球やったりする子たちとはまったく別で
こっちはどっちかというと 野球の数合わせ的な感じ

小さい弟や妹を連れて 面倒見てる子たちが多くて おとなしいグループ

二つのグループでうまく遊んでたなと 今でも自分に感心する

だから 不登校の理由は 絶対に誰にもわからないだろうなと思う


秋も終わる頃
夜 ひとりでご飯食べて ひとりでテレビを観て

今でも覚えてる

水曜日の夜21時過ぎ テレビは夜のヒットスタジオデラックスが流れてて

ふと思った 死のう

そう思い 着替えて 近くの6階建てのマンションの最上階にあがり
廊下の鉄作を超えて前のめりになって 両手は後ろ手に手すりを掴んで 恐怖感もまるでない

いつ手を離そう  

泣くわけでもなく 震えるわけでもなく
数分か 数十分か 手を離す勇気もなく 家に帰って寝た


翌日 何事もなかったかのように登校

何か苦しくなる出来事があったわけでもなく 嫌なことがあったわけでもない

普通にテレビを観てて そう思っただけで
その時は なんでそんなことをしたのか 全く思いつかなかったけど

数日後 何気に将来への不安を考えてたこともあったなと 思い出した


ご飯も毎日食べられず 学校にも行かず 勉強できるわけでもなく

中学生活 まともに生活できるのか?

中学卒業して 簡単に就職できるのか?

そんな不安を抱えながら冬休みに入って新年を迎えた



不登校になって どうやって過ごしていたのか?Vol.3 6年生

2021.9


5年生の3学期も終わろうとする頃に

母親からの急な呼び出しで 離島から 以前住んでいた市内に呼ばれ
今日からここに住む と宣言されて

母親に対しての不信感が強くなった頃


生きていくことの励み というと 大袈裟かもしれないけど
好きな子と 交換した 自主学習ノートも 処分され

さらなる不信感しかない母親と二人で暮らすことになった


5年生の3学期の終業式を迎えず 6年生の新学期まで 不登校となり
離島で処分されたと思った学校道具だけは 後日送られてきた


新学期を迎えてから数日後 新しい学校へ登校

登校と言っても 転入届を持って全く知らない学校へ始めて登校する

親の付き添いもなく一人で
教頭先生に転入届を出し 新しい母校となる学校の手続きは 子ども本人だけ

教頭先生も 困ったなぁ といった感じだったけど受理され

転入した学校は6年生2クラス

4回目の転入となると慣れたもんで 黙ってても取り囲まれるから

好奇心旺盛な子たちのおかげで 友達はすぐにでき
家が近い子と帰るようになった


1学期の後半から 給食費の未払いが始まったけど ほとんど登校したので
放課後に友達と集まって野球したり 遊ぶことも多く

隣のクラスの友達も増えてきた


母親が帰ってこないと 平日でも ご飯が食べられない日もあったが

6年生になると 少しばかり料理の知識も身に着くので
具なしの味噌汁や すいとんとか作って食べてたかな


夏休みに入る前に 先生から個人的な呼び出しがあって

給食費を払ってくれるよう 親に伝えるように言われるけど
母親も中々帰ってこないので伝えられず


夏休みも 相変わらず電気は止められ 電話も止められるし

電話が止められると 家に電話をかけてくる友達とかにもバレるから
最初からないほうが良いと 小学生でも思う

母親も帰ってこず 食事もあまり食べられず お金もないので出かけることもなく
夏休みは 家で過ごすことが多かった


ガス会社の訪問集金はよく来るし 借金取りも毎日訪ねてくる

借金に関しては 母親の彼氏の借金というのは 借金取りに教えてもらった

電気は止められ 夜は真っ暗になる
ろうそくは 前もって母親が買ってきたのがあって
夜はその明かりで過ごすこともあったけど

住んでるアパートは3階で 道路に面して見晴らしも良くて
逆に言えば 外からでも電気の明かりで 居るのか?居ないのか?わかってしまうので

外から見ると
電気もつけずにろうそくの明かりが部屋でゆらゆらしてるのも
電気止められてます宣言 になるので なるべく使わないようにして


水道は止められることはなかったので
冷水でもお風呂に入れるのはありがたかった

ガスはアパートの個室単位で止めることが出来ない というのは
ガス料金の訪問集金の人に教えてもらった


当時 給食費が払えないのに 給食を食べることへの罪悪感は どうしても消えなく
不登校することが 悪いんじゃなくて 給食費を滞納することが悪い

だから学校には行かない

この考えを持ったのは 先生の一言から始まったのは 覚えてる

3年生の時

〇〇君と 〇〇君と 〇〇さん
給食費払えてないので 払ってもらうように家に人に伝えてくださいね
給食費払わないと 給食は食べられませんよ

先生からの何気ない 悪気のない言葉
先生からすれば当たり前のことを言ってるだけなんだけど

自分の心には刺さってしまった


先生がどうとか それは全く思わない
自分の家庭環境が招いたことだから 給食費を払わない自分が悪い


ただ大人になっても思うのは
中学卒業まで 光熱費や備品などで徴収される学級費とか 給食費は無償化にしてほしい

義務教育なんだから 子供たちの学びの場を しっかり国が支えてほしい


この時代 子ども食堂のありがたさは 自分でもよくわかる

子ども食堂は 子供たちに食を分けてくれるだけではなく

自分たちの居場所 自分たちが居ても良い場所
自分たちの存在を認めてくれる場所だから

行政の力が大きく加わって
淡々と事務処理的なことをされても あまり意味がない

人の優しさ 大人の優しさ 人のぬくもりを求めている子どもが
寄り添う場所だと思う

不登校になって どうやって過ごしていたのか?Vol.2 5年生

2021.9


5年生の三学期に転校した学校は 離島の学校で1クラスだけ

親の知り合いの紹介で借りた家は 小さな一軒家

母親と過ごすことが多かったが 帰りは遅く 朝早くから出かけたりしていたので
学校に行かなくても 家ではひとりになれる環境ではあったけど


離島の学校は人数が少ないから 行かない訳にもいかず

転入したばかりだと いじめられてるとか思われるのも嫌なので
たまに休むくらいで ほぼ通学

都会から来た自分に クラスの子は興味深々で
いろんなことを聞かれたり 家に呼ばれたり すぐに友達もできた


家にテレビはなくて 本を読むことが多くなった

前の生活では 電気代が払えなくて 止められることも多かったからか
テレビがなくても 不便に感じたことはなく

前の学校の好きな子と交換した 自主学習ノートを
開いては眺めて 想い出に浸ることが日課になってた

好きな子とは 苗字が同じだったので
将来 結婚してもお互いに名前が変わらないな と考えてたこともあったかな


そんな生活が1か月ほど続いていたけど
母親が帰ってこない日が多くなったのもこの辺からで

相変わらず朝ご飯は食べなくて 晩ご飯は 母親が作った作り置きか

無いときは ご飯を炊いて適当に 食べれないときもあったけど
前ほど苦労することはなかった


月に2回くらい フェリーに乗って30分で本島に行き
そこから路線バスで2時間かけて 前に住んでた市内に帰ることもあって
叔母さんの家に泊まることもあったり 母親が住むアパートに泊まることもあったり

おかしな生活をしていたけど たまに帰るのは自分にとっては心の癒しのようなもの


帰る時は クラスの子に頼まれて
離島では買えないおもちゃとか いろいろ買って帰ったことも


前の 想い出深い学校も 路線バスの通り道で 寄ろうと思えば寄れたけど 中々足も運べず
転校して数か月で 顔を出すのもなんだなと 

好きな子にも逢いたい そんな気持ちを押し殺して過ごしてた

離島暮らしを初めて2か月ちょっと 3学期も終わりに近づいて

相変わらず一人で過ごすことが多く ご飯は毎日食べられていたかな


母親からの急な電話連絡

電話は家になくて 親の知り合いの家に電話があって
そこのおばさんが家まで来て教えてくれた

そのおばさんの家まで2キロくらいかな
車で乗せてもらうと 帰りも送ってもらうのも悪いので

のんびり歩いて向かって 電話を貸してもらい 母親と話すと

学校は良いから帰ってこい と言われ


知り合いのおばさんから交通費を渡され
翌日は学校に行かず ほぼ手ぶらでフェリー乗り場に向かった

フェリーに乗り バスに乗って 2度乗り換えて 母親が住んでるであろうアパートに向かう

母親のアパートは 前に住んでた所とは同じ市内だけど 距離的には離れていた

母親の家に着いて 母親からの衝撃発言 

今日からここに住むから

はぁ?置いてきた荷物どうする? 

向こうで全部処分してもらうから

はぁ!大事な物もあるのに 俺は取りに帰るぞ!

もう処分してないよ



俺が母親のアパートに向かってる最中に 離島の家では大掃除が始まって
家にあるものは全部処分された…


大事な大事な 好きな子と交換した 自主学習ノートも処分された


これで余計に 母親のことが嫌いになったけど さらに嫌いになることがあった


この2か月半の離島生活は 母親が彼氏から逃げるためで
結局 復縁する形で市内に戻ったのを

家に遊びに来ていた母親の友達が
別の友達と話をしてるのを聞いてしまって知った


今回の転校が4回目で 借金だの男だの 母親の都合で振り回されてきたことは

まだ続くことになる

不登校になって どうやって過ごしていたのか?Vol.1 5年生

2021.8

前回 不登校になった理由を 書いてみたけど
今回は 不登校の時 どうやって過ごしていたか を 書いてみました


小学4年生から不登校になって 誰も居ない家で過ごすのも
あまり落ち着かない時間ばかりで

平日の登校時間に家で過ごすのも 葛藤があったりもする
学校に行ったほうが良いのか? 行かなくて良いのか? 考えてしまうことはあった


登校時間が過ぎてしまえば
今日も行かなかった と 多少の罪悪感はあったけど時間がたてば忘れてしまう


前にも書いたけど 先生が家にくるのは
午前中の10時までの時間帯で それが過ぎるまでは息を殺すように過ごしてた


お金がある時は お菓子を買いに行くけど

近所のスーパーに買い物に行くと
学校に行ってるはずの小学生が 買い物に来ると かなり目立って 大人の視線が痛いほど

たまに学校は休みなの?と
声をかけられることもあったので さっさと家に帰った

お金がある時は と言っても 100円程度で ご飯を買う余裕はまったくない

スナック菓子を一袋買って それが食事変わり

たくさん入ってて味の濃いお菓子を食べると
濃い分 全部は食べられないから数回に分けて食べる それで満腹感も出たりする

電気やガスが止められても お菓子なら食べるのに困らない


もう少しお金がある時は 卵を買ってきて焼くくらいで
スクランブルエッグは今でも好きだね


ほとんどテレビをみて過ごすことが多く 再放送のドラマも好きで
特に2時間ドラマは今でも好き

電気料金が未払いで 止められたりすると
じっと何も考えず 一日を過ごしてみたり 寝てみたり

母親が買ってきたのか もらってきたのか
家にある週刊誌を読んでみたり この辺から 本を読むことが多くなった気がする

あとはたまに掃除したりするくらいかな


勉強が遅れるとか そういうことはまったく考えてなくて
能天気と言うか お気楽モードで過ごしてた覚えはある

学校に行ってないことを 永遠と母親にバレないわけでもないけど

不思議なことに
不登校で家で過ごしてて 母親が帰ってきて鉢合わせ そんなことは一度もなかったけど

いかに母親が家に帰ってこないかが よくわかる
今でも恐ろしい親だと思うね

どういうわけか 学校に行ってないことは 母親にバレてしまうけど
学校に行けと言うくらいで それ以上のことは何もない

家の様子でわかるのか?
近所の人の密告なのか バレる理由は今でもよくわからない

夕方の下校時間 たまにクラスの友達が プリントなどを持ってきてくれるが
好奇心旺盛な クラスの子も着いてくることもあった

居留守を使うこともあったけど
あまり顔を出さないと 先生が家に来るか 警察にでも通報されそうなので
友達が来てくれた時は 顔を出すようにしてた

5年生にもなれば いろいろと知恵がつく


何日も学校を 無断欠席して たまに行くと
当然 担任の先生にいろいろ聞かれるけど 不登校の理由は一切口にせず

具合が悪かったとか 朝起きられなかったとか誤魔化すだけで
深くは追及されなかった

担任の先生からすると 
学校に来たときは クラスのみんなと仲良くやってるし いじめられてる様子もない

1年前に転入してきたとはいえ ほかのクラスにも友達はいるし
休み時間に 仲の良い女の子とも 二人でおしゃべりしてるし

こういう状況で学校に来ないのが不思議に思ってたはず

転入してきた4年生の時 

転入生というのは 何かとちやほやされやすい
その分それを見て 嫉妬する子もいるらしく

転入してからうまく友達になれない男の子が居て いつも冷たくされていた
まぁ やんちゃな子なんだけど

転入してきて半年くらいかな
急に向こうから接近してきて 家に招いてくれたりもして仲良くなった

休み時間はいつも運動場に出て遊び 放課後も遊び
いつの間にか 一番の仲良しになった頃 告白された 愛の告白じゃないよ(;^ω^)

俺は お前が転入して来て みんなにちやほやされてるの見て 凄く嫌いだった
だけど みんなとも仲良くやってて ほかの友達からも あいつは良い奴だよ と
言われても 信じなかった  だけど 今はお前が好きだ(^-^)

そ、そう (;・∀・) ありがとう! いつも遊んでくれてありがとう!
それだけ言った(^_^;)

4年生で転入してから すぐに仲良くなった女の子が居て
席も隣で 休み時間とか よくお話してたんだけど

日が経つにつれて 好きになって たまたま放課後会ってお話したり
好きという気持ちが強くなった

俺は全く知らなかったけど 向こうも俺のことが好きだったというのは
クラスの全員知ってて 知らないのは俺だけだった

席が近くて 授業中にみんなで笑うことがあったりすると
いつも顔を見合わせて笑ってた

5年生に上がる時 先生からクラスが発表されるんだけど
先に自分のクラスが発表され 次にその女の子のクラスが発表されると 同じクラスで

その瞬間 クラスのみんなが こっちを見て おぉー!一緒だね
て喜んでくれるほどだった

5年生に上がると その女の子と席が隣だった

だから学校に行くのも楽しかったから
4年生よりは登校することも増えたけど 無断欠席する不登校は続けてた

2学期になって 必ず席替えがあるのはわかってて
次はどんな子の隣なんだろうと思ってたら

また 好きな子が隣になった

4年生から同じクラスだった子達は 知ってるから
そうなるよね とか 良いよ 良いよ とか言ってくれて

知らない子はなんでだろうと 思ってたらしく
あとから学級委員の子に教えてもらったのは

〇〇君は 理由はわからないけど なかなか学校に来てくれない
だから 仲の良い〇〇さんが隣だと 学校に来るようになるんじゃないかと 

4年生の担任の先生が考えた作戦だったようで
5年生で担任の先生が変わっても そこは引き継いでくれたらしい

ずっと好きな子が 隣の席だったということで 登校する回数が増えたけど
自分は まんまと先生の作戦に引っかかったというわけ(^_^;)

いま考えても そこまでやってくれる先生に出会えたのは 嬉しかった
先生のこの気持ちは 当時もすごく嬉しかった

5年生は登校する日数は多かったし 出来るだけ学校に行こうと思ってた矢先

母親から
引越しすることを告げられ それを三日間 先生にも言えなかった

もちろん転校しないといけないから 反発はしたけど当然無理で

結局 引越しする三日前に先生に報告して 
クラスのみんなにも 好きな子にも 学校が最後の日まで言えなかった

でも先生が 明日 授業中でも良いから 何時でも良いからクラスに来て
みんなに お別れ言いに来て と言ってくれたから

翌日 母親に頼んで学校に寄った

授業中だったけど クラスのドアを開けたら 一斉に名前を呼ばれて
どこに引越しするの!と聞かれたけど 答えられなくて

遠いところ みんなありがとうね て良いながら 

好きな子の顔を見たら 泣くの我慢して笑ってた
視線が好きな子に向いたの みんな気づいて一斉に みんながその子の顔をみてた 

少し遠かったから 涙を流しながら笑ってたかもしれないけど 笑顔で見送ってくれた
俺も泣きそうになりながら 笑顔で手を振った

振り返らず クラスを出た

今でも思うのは 人生で一番辛い別れだった


引越しをすることを知って2日目くらいだったかな

クラスで帰りの会の前に 毎日1ページやる自主学習ノートが先生から返却された時

これ見て ノート1冊綺麗に使い終わったよ(*^^*) と好きな子が見せてくれた

そのノートを 手に取って開いたら とても綺麗な字で
ノートにびっしり 計算とか漢字とか 感想文とかたくさん書き込まれていた


うわ!綺麗に書いてるね!凄い!(^-^)

でしょ(*^^*)

ねぇ このノート貰っていい? そう聞くと

えっ!なんか恥ずかしいなぁ(/ω\)

でもこの後 このノートどうするの?

本棚に入れておくかな(>_<)

お願い!このノートどうしても欲しいから ちょうだい(^_^;)

じゃあ 交換なら良いよ(*´▽`*)

えっ!交換!(;・∀・) 俺 字汚いの知ってるでしょ(;・∀・)

綺麗とか 汚いとかそういうことじゃなくて 私も欲しいぃ(*´▽`*)

交換か(;・∀・) 字汚いのに恥ずかしいな(;・∀・)

恥ずかしいのは一緒だよ( *´艸`)

そうだけど(^_^;) 見て笑わないでよ(;・∀・)

笑うけど大切にする(*´▽`*)

じゃあ交換ね(;^ω^) 俺も大切にするよ ありがとう(*´▽`*)

うん! ありがとう(*´▽`*)


そのノートは宝物として 新しい引越し先に持って行った


いま振り返っても 一番楽しかった子供時代だった

不登校になった理由は… 貧困


2021.8.29

今年で46歳(*´▽`*) 

小学校と中学校は ほぼ学校に行かず 不登校で たまに保健室登校
中学は 生徒指導室登校もあったけど ほぼいかず

なんとか中学は卒業し 高校進学は金銭的に諦めて就職を選んだ


中卒で 親元を離れ県外に出て 寮のある会社に就職

あれから30年… 

途中いろいろあったけど 
子ども食堂へ差し入れするようになるとは(^-^)


子ども食堂を検索したり 子ども食堂のブログを読むことも多くなってから
自分の不登校時代をよく思い出す…


小学校時代の環境は 母子家庭で 家には誰も居なくてずっと一人

小学校2年生の時に転校して 3年生から生活環境も悪化する一方で
毎日ご飯が食べられない状態が多く

食べる楽しみは学校での給食で ゆいいつの食事

夏休みになると 3~4日はご飯も食べられないのは普通で
長いと1週間とか10日とか 食べられないこともあったり

でも当時は こういう生活が 普通とまでは思わないけど 気にはしてなかったかな(;^ω^)

3年生のいつからか? 給食費が払えてないことがあって 

クラスの帰りの会で先生に 

〇〇君 給食費払ってないから お母さんに伝えといてね と

みんなの前で言われることが 当時は普通で 名前を挙げられる子は数人

え~〇〇君のとこ 給食費払ってないのぉ~

という声は上がったりすることはあったけど

周りの子は 気にすることもなく
そのことを あとからクラスの子に 何か言われることもなかった

ちなみに 母親は家に帰ってこないから 伝えるのも不可能な状態


4年生に上がると 給食費は

給食袋にお金を入れて 職員室のポストに入れる仕組みだったので
給食費が払えていないことや 未払いの月があることは 自分で自覚するようになったかな

払えてないと 当然クラスで公開処刑されるのは変わらずだけど
4年生になると 給食費未払いで給食を食べることに罪悪感を持つようになり


そこから 不登校が始まった…


1週間に1回 学校を休むようになって それが2回3回と回数は増えて
無断で休むから 当然先生は親に連絡しようとするけど

うちには電話もなかったから 様子を見に家に来るようになる

最初は応答してたけど 話するのも面倒くさくて居留守をするようになったり
そのうち先生も 家には来なくなったけど

クラスの友達が 放課後に様子を見に来てくれて

当時 給食で出たパンは完食するか 持ち帰って食べるかの 2択だったり

休みの子の家に プリントを届けるときに 給食のパンを持っていくルールがあって
友達が持ってきてくれたけど

パンは受け取ることは出来なかった


学校に行かない理由は 友達にも 誰にも言わなかったし
うちの母親は なんで不登校になってたのか 今でもわからない

そのあと小学校は3回 転校したけど
給食費は未払いが多いので不登校はやめなかった



またいろいろ書きますよ(^-^) 

暗い話だけど お楽しみに(;^ω^)